6

昭和マイルド

柔の加藤 VS 剛の志村(前)
――広川峯啓 連載第一回

編集部

今こそ加藤茶の正当な評価を!お笑いエンタメライター広川峯啓渾身の新連載「シン・加藤茶論」がいよいよ本格スタート!

序説はこちらから!

前回の序説(↑)を経ての第一回ということで、順当なら往年の加藤茶の魅力、面白さを存分にお伝えするべきところだが、その前にひとつ片付けておく重要な要素が立ちはだかっている。志村けんとの比較検討である。この部分をあいまいにしておくと、後々の分析にも精度を欠く結果になりそうで、敢えて冒頭で触れることにする。

1974年に志村がドリフに加入。2年後に「東村山音頭」のヒットで、後めきめきと実力を発揮して、加藤茶に代わりグループメインのパートを受け持った。そして日本を代表するコメディアンの位置まで登り詰めた。これ自体は紛れもない事実である。

しかしこれだけで、志村が加藤より実力が上と考えるのは、あまりにも短絡というものだろう。まずはその理由の一つとして、二人の年齢差を考える。1943年生まれの加藤に対し、1950年生まれの志村。体力と頭脳をフル稼働させるコメディアンとしてのピーク時も、ある程度の隔たりがあると考えるのが当然。両者とも日本中を沸かせるギャグや流行語を生み出しており、どちらが優れているかと決めつけることは無意味でしかない。

そもそも二人はコメディアンとしての資質に大きな違いがあった。

ボケとツッコミにざっくり分けると、加藤茶は典型的なボケ役だったのに対し、志村けんはボケもできるが本来ツッコミを得意とするタイプ。長年にわたり「全員集合」の前半コントは、リーダー・いかりや長介が部下たちの失敗を怒鳴りまくるというパターンに固定されていたが、メインが加藤から志村に代わっても、その構造に変化はなかった。それが成立したのは、いかりやの強烈なツッコミありきだったと、いま当時のコントを観ると、それがよく分かる。

志村が加藤の二番煎じで終わらなかったのは、いかりやに時折ツッコミ返すという技を見せたことにある。台本通りなのかアドリブかは分からないが、志村にやり込められるいかりやを見て、会場の子どもたちはもちろん、我々テレビの子どもたちはいっそう湧いたように記憶している。そんな志村の攻撃性が最も発揮されたボケ役が「バカ殿様」だった。”バカ”でいながら絶大な権力を持ち合わせるという設定は、ボケもツッコミも縦横無尽に打ち出せるため、まさしく適役だったと思える。

そんな志村の資質を”剛”とすると、加藤茶はまさしく”柔”に位置付けられる。志村は子ども時代から笑いのプロを一直線に目指してきたが、加藤はもともとミュージシャン志望だった。

当初トランペッターに憧れるも、楽器が高価過ぎて手に入れられず、捨てられていたドラムスティックで自己流に練習したところから、プロドラマーへの道が開けた。そこから楽団として活躍していた桜井輝夫とドリフターズに加入するも、リーダーがいかりやに交代し「ドリフは笑いでいく」との宣言を受けて、ようやくコメディに力を入れ始めた。柔軟性のロールモデルといっても差し支えないだろう。

世に「柔よく剛を制す」という言葉があるが、加藤と志村の場合は、直接対決することなく、志村の躍進を加藤が脇に回ってサポートしてきた印象が強い。実際、この二人をライバル関係と捉えた人は少ないのでは。ドリフと同時期に人気を競ったコント55号でさえも、欽ちゃんより二郎さんへの声援が多くなった頃に、コンビの関係性が危うくなったという。では加藤、志村の間には、なぜ対立構造が生まれなかったのだろうか。 (次回に続く)

文:広川峯啓
イラスト:Waco
レコード提供:鈴木啓之