3月27日に公開される『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』。宮藤官九郎が脚本を書き、田口トモロヲが監督したこの作品は、写真家の地引雄一が1986年に出した自伝的なエッセイ『ストリート・キングダム 東京パンク/インディーズ・シーンの記録』を原作とした青春映画で、1978年から79年にかけて起こった日本初のパンクロック・ムーブメント「東京ロッカーズ」と、その後のインディーズ・ムーブメントの始まりまでを描いている。
東京ロッカーズとは、ロンドンパンクよりもニューヨークパンクに共鳴して独自のビートと言葉を獲得した東京のはみだし者たち……フリクション、リザード、ミラーズ、ミスター・カイト、S-KENの5バンドをひとまとめにした言葉だが、六本木のテレビ朝日通りにあったS-KENスタジオで開催していたギグの名称でもあり、ムーブメントの呼び名でもあった。そのムーブメントの火をつけたのがs-kenで、自らバンドのフロントに立ち、裏方としても奔走した。
※この記事は雑誌『昭和40年男』2026年2月号に掲載した原稿を再構成したものです。
東京ロッカーズとはなんだったのか。
s-kenは昭和22年、東京・大田区の大森生まれ。1971年にアイ・ジョージの「自由通りの午後」を作曲してポーランドで行われたソポト国際音楽祭に参加。世界一周の放浪後、即席バンドでソニーからシングルを2枚出し、72年からは作曲活動を続けながらヤマハの音楽誌『ライトミュージック』の編集/ライティングの仕事をするようにもなった。そして75年にヤマハの海外特派員として渡米。ロサンゼルスではロキシーシアターでボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのライブを体験してショックを受け、76年から住んだニューヨークではパンク/ニューウェイヴの渦に巻き込まれた。
「きっかけはレコード屋で見つけたフリーペーパー。CBGBやマクシズ・カンザス・シティといったクラブを中心に新しいストリートロックのムーブメントが起きつつあるという特集記事が載っていた。“パンク”とは書いてなくて“ニューヨークストリートロック”。興味をもって、まずバワリー地区にあるCBGBに行ってみたんだ」「なかに入ると、みんなが好き勝手にやっていて、犬もうろついていて。ほかのライブスポットとは違う独特の雰囲気だった」
そこで何かが起きていることを感じた当時20代後半のs-kenはCBGBに入り浸るようになり、「3日と空けずに行っては、有名無名関係なく、たくさんのライブを観た」と言う。
「ラモーンズとパティ・スミスとテレヴィジョンはすでに人気があった。ブロンディはまだ客があまりいなかったね。トーキング・ヘッズも客は5人くらい。どのバンドも演奏はまだ下手だった。でも感覚的に新しかったし、一個一個のバンドがすごいというより、渾然一体となってエネルギーを放っていた。客同士がバンドを作る話をしていたり、20代前半のやつがファンジンを売っていたりもして、ここから新しい価値観が生まれるんだなという予感がはっきりとあったんだ」
それはまさしくニューヨークパンクなるものが発生する場所であり、時であった。そこでの熱と刺激があったからこそ、s-kenは帰国後、東京ロッカーズというムーブメントの火をつけたわけだが、では何がきっかけで、どのように動いて、それは始まったのか。そこから日本のパンクはどう広がっていったのか。
そして、81年からソロ・アーティストとしてのキャリアをスタートさせ、「TOKYO SOY SOURCE」(じゃがたら、ミュート・ビート、TOMATOS、s-ken&hot bombomsの4バンドとDJたちによるシリーズイベント)や「カメレオンナイト」(DJ、サルサバンド、アフリカやカリブのリズムをベースにしたダンスバンド、ボードビリアン、大道芸人ら、ジャンルと国籍を超えて様々な出演者が集まったシリーズイベント)といった伝説的なクラブイベントをいくつも主宰し、90年代以降はプロデューサーとしてクラムボン、スーパーバタードッグ、DJ KRUSH、PE’Z、中山うりほか数多くのアーティストを世に送り出したs-kenにとって、東京ロッカーズとはなんだったのか。そのあたりに焦点を当て、たっぷりと話を聞いた。

──s-kenさんがニューヨークのCBGBに入り浸っていたその時期、その体験を振り返って、今はどんなふうに思いますか。
s-ken:パンク特有のエネルギーをもったバンドがたくさんあって、それを伝えるファンジンがあって、だんだんと盛り上がっていくという、その現場というのは二度と見ることができないわけじゃない? だけど自分は確かにそのなかにいた。その、“いた”ってことが重要なんですよ。たとえばキングストンのシャンティタウンでレゲエが出てきたそのときの雰囲気というのは、そこにいた人しかわからないわけじゃない? サウスブロンクスのブロックパーティーにクール・ハーク、アフリカ・バンダータ、グランドマスター・フラッシュといった連中が集まって、そこからヒップホップのカルチャーが生まれていく様子も、そのなかにいなかったらわからないし、後からは入れないわけじゃない?
──そうですね。
s-ken:そういう環境がまずあって、そこからパンク/ニューウェイヴが世界中に波及していったわけで。その根っこみたいなところに自分がいた。だけど、根っこのおもしろさに気づける人はそんなにいないんだよね。たとえばニューヨークのCBGBでいくつものおもしろいバンドが演奏していても、当時のメジャーのレコード会社のA&Rなんかは無関心なんだよ。「今、CBGBでおもしろいことが起きてるよ」って言っても、「何それ?」みたいな感じでね。だけどそれから数年経ってシーンがワールドワイドになってくると、途端に“すごいよね!”ってみんなが言いだすわけ。
──s-kenさんはそういった根っこの部分のおもしろさと、そこにいることの価値をわかっていて、それが徐々に広まりながらシーンが作られていく過程に興奮していたわけですよね。
s-ken:うん。個人のサクセス・ストーリーってあるじゃない? たとえばクイーンの映画なんかはフレディ・マーキュリーという人物のサクセス・ストーリーのなかにいろんなドラマがあるというパターンなわけだけど、僕は個人のサクセス・ストーリーって興味がない。天才に興味がないの。天才なんていつの時代にもいるだろうと。それより、ちっちゃいものがとんでもないものへと膨らんでいくのを見ているほうが刺激が強い。ジャマイカというちっちゃな国の音楽が世界中に広がっていったときの、その根っこはどういうものだったのかとか。ソーホーのパラダイス・ガラージという場のゲイ・カルチャーのなかから、今のEDMに繋がるダンス・ミュージックを世界に広めていったラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズらDJが出てきたこととか。そういうのを見てみると、やっぱり最初は非常に閉ざされたコミュニティから始まっているわけ。東京ロッカーズもそう。今は伝説になっているけど、当時は評論家とか誰も観に来てないからね。
──東京ロッカーズもそうした閉ざされた空間のなかから始まり、熱を帯びていった。
s-ken:そう。何人かの情熱がそこにあって、それが一気に動くと、こんなことができるんだなっていうのがわかるんだよ。シーンを盛り上げるなんて自分には向いてないはずだし、それまでそんなことやったことがなかったのに、あのときニューヨークで起きていたことをなりゆきで知っちゃった者の天命のように思えて、動くことをしちゃった自分がいた。で、やりだしたからにはダメモトで努力してみよう、オレにはやるべきことがあるんだ、ってなって。言ってみれば、東京ロッカーズは瓢箪から駒なんですよ。先導者みたいな血が自分にあるとはまったく思ってなかったけど、それをしちゃった自分がいるわけ。だけど誰のことも知らなかったら自分も動かなかったかもしれない。(フリクションの)レックという、ニューヨークの状況をわかっていた人間がひとりでもいたから動けたわけで。ニューヨークでレックが僕のアパートを訪ねてこなかったら、東京ロッカーズは始まらなかったかもしれないね。
──s-kenさんがニューヨークのアパートに住んでいたときに、ある日突然レックさんが訪ねてきたんですよね。どんな感じだったんですか。
s-ken:僕はセントラルパークウエスト、西76丁目のアパートの3階だったか4階だったかに住んでいたんだけど、ある朝早くに呼び鈴が鳴ったので郵便物が届いたのかと思って階段を駆け下りてドアを開けたら、知らない日本人の男女ふたりが立っていたんだ。それがレックとイクエちゃん(イクエ・モリ)で、「着きました」とか言って。その頃、僕は『ライトミュージック』のスタッフを通じて『ロッキンf』にレポートを書いたりしていたんだけど、それを読んで僕を訪ねてきたらしいんだよ。加藤 普という僕の知り合いの編集者に住所を聞いて来たらしく、一週間くらい僕のアパートに泊めてもらえる手筈になっているはずだと。そんな話、まったく聞いてなかったからびっくりしてね。とりあえず近所のレストランに連れていって話を聞いて、安いウィークリー・アパートメントを紹介したんだけど。
──s-kenさんの書いた『ロッキンf』のレポートを読んでレックさんが来たわけですね。つまり、レックさんはそれを読まなかったらs-kenさんを訪ねて来なかったし、東京ロッカーズは始まらなかったかもしれない。
s-ken:そういうことになるね。

──その当時、レックさんは3/3というバンドで活動していたんですよね。(3/3、フリクションのドラマーだった)チコ・ヒゲさんともニューヨークで出会ったんですか。
s-ken:チコ・ヒゲはニューヨークではなく東京で初めて会った。僕のバンド(S-KEN。もともとS-KENはバンド名だった)のデビューとフリクションのデビューは一緒なんですよ」(S-KENのデビューライブは1978年4月15日、渋谷・屋根裏。対バンがフリクションで、同じくデビューライブだった)。
──77年の終わり頃、s-kenさんは日本に帰国することになります。著書『都市から都市、そしてまたアクロバット S-KEN回想録1971-1991』で、そのときの思いをこのように綴っていました。「ジョン・F・ケネディ国際空港から飛行機に乗り、帰国の途についた私はニューヨークのエネルギーが感染し活力に満ちていた。東京をおもしろくしてやろう。少々クレイジーと思われるかもしれないが、パンクにやるしかないだろう。ドゥ・イット・ユア・セルフ!」。そのくらいニューヨークという街にやられていたわけですね。
s-ken:うん。あの頃のニューヨークって、財政的にはいちばんやばかった時代なんだよ。でも都市自体に猥雑なバイブレーションがあって、エネルギーに満ちていた。75年、76年、77年。この3年の間にアメリカにレゲエがきて、パンクがきて、ヒップホップがきて、ガラージがきて、その真っ只中にエイズが襲ってきたわけ。パラダイス・ガラージというゲイ・カルチャーの出発点みたいなところにもエイズが侵入してきたわけだよ。まさに天国が地獄になってきた感じでね。そういうたいへんな時期に、天の配剤と言うべきか僕が居合わせたわけだから。えらいことですよ、自分の人生としては。
──そうして帰国したとき、s-kenさんの目に東京はどんなふうに映ったんですか。
s-ken:いろんなものがこじんまりして見えたね。東京をおもしろくしてやろうなんて意気込んで帰国したけど、ずいぶんと空虚で活気のない街に見えた。ただ、ニューヨークのパンクシーンをリアルに体験してきたということで、それを記事にしたいという話が意外なほどあったんだ。それでいくつかの雑誌にニューヨークの体験を書いたりしたんだけど、探訪記みたいなものを書いても、今はパンクが熱いみたいなことを書いても、なんかどっかにわびしさがあってさ。パンクのメッセージは“ドゥ・イット・ユア・セルフ! オマエも立ち上がれよ!”ってことなわけじゃないですか。ニューヨークに行く前にL.A.で観たボブ・マーリーも“ゲット・アップ、スタンド・アップ”と歌っていたわけで。そういう音楽に直に接してしまった自分が果たしてレポートを書いているだけでいいのか?っていうような気持ちがあってね。で、僕の場合は初期衝動として作曲があった。ちょうど東京でレックと再会していろんなことを話したというのもあったんだけど、自分のなかで作曲に対する思いがまた蘇ってきたんだ。
──それで、“よし、自分もまたステージに立とう!”と。
s-ken:いや、急にはならないですよ(笑)。だけど、ニューヨークでパンク/ニューウェイヴのムーブメントが広がる真っ只中にいて思ったのは、“やっていいんだ”ってことだったから。俺はもう30になる。普通は20代前半でシングルを2枚出しても、30で諦めたりするじゃない? でもパンクの概念で言えば、年齢なんて関係ないわけ。それで自分もまた曲を書いて、ギターを持って歌い出そうと決めて。
──年齢も経歴も性別も関係なく、やりたいならやればいい。それがパンクのアティテュードだと。
s-ken:そう。ファンジンを作っていた女の子が楽器を持って曲を書きだしたり、それまで建築家だった人間が音楽をやり始めたり。社会学的にはそのような行動様式をエトスって言うんだけどね。自分たちで身近なありものを使ってどう表現するか、どう作るか。東京ロッカーズによって、そういうエトスを伝播できたと僕は思っていた。たとえばギグのチラシなんかにしても、自分たちでコラージュしたり、手書きで作ったりして配るわけ。変にお金かけるより、そっちのほうがかっこいいという感性だね。『”CHIRASHI” – Tokyo Punk & New Wave ’78-80s』という本が数年前に出たけど、あの頃に完全な手作業で作られていたチラシは、バンドの個性や指向性を簡潔に伝える媒体として機能していた。お金をかけるんじゃなくて、そこにある何かで革新的なことをやろうという精神だよね。まさにドゥ・イット・ユア・セルフってこと。まあ当時はそんな言葉は使わなかったけど。つまりクロード・レヴィ=ストロース(フランスの文化人類学者)の『野生の思考』にあるブリコラージュみたいなことで、身近のものでなんとかするという日曜大工的思考に近いものだね。
──東京ロッカーズの始まりについて聞かせてください。先ほど話に出ましたが、S-KEN(バンド)とフリクションの対バンによるデビューライブが1978年4月15日、渋谷の屋根裏で昼間に行なわれたと。このときのことは覚えていますか。
s-ken:覚えてます。何しろ無我夢中で、周りにいた人間や過去にバンドをやっていた連中に声をかけて始めたわけ。ドラムはキングレコードに勤めていた加藤(正文)だったし、ベースはワーナーパイオニアの洋楽ディレクターだった山浦(正彦)だし。ギターは一緒にバンドをやっていた増尾(元章)だったし、加藤に代わって入った次のドラムはネズミ(富田英二)だった。『詩の世界』という雑誌から頼まれてニューヨークパンクについての原稿を書いたんだけど、そのなかで勢いあまって、「バンドを作って歌い始める」って書いちゃったんだよ。そうしたらその雑誌の編集長が「ライブをやろう」って言って、ブッキングもしてくれた。「よし、やるぞ!」ってなったんだけど、その時点でまだ1曲もないわけよ。だから、そこからすごい勢いで曲を作って。1~2週間で17曲くらい。今思うとクレイジーというか、無謀だよね。それで屋根裏の楽屋でメンバーと音を合わせて、「よし!」って言って出ていったら、1曲目からギターのチューニングが全然合っていなかった。30~40分くらい、しどろもどろで演奏して、こりゃダメだって思いながら楽屋に戻ったんだ。ところが観に来ていた友達数人が楽屋に入って来て、開口一番「かっこよかったよ!」って言ってくれてね。「じゃあ、またやろうか」ってなって。げんきんで単純なもんですよ(笑)。
──フリクションはどうだったんですか。
s-ken:フリクションは凄かったよ。我々と違って、デビューライブだというのにすでに完成度が高かったね。
──そのデビューライブが昼間にあった4月15日、奇しくも夜には北区公会堂で紅蜥蜴(リザードの前身バンド)、ミラーズ、ミスター・カイトらが出演したコンサートがあって、屋根裏でのライブを終えたフリクションも駆けつけたとか。これが「事実上、日本で最初のパンク・コンサートとなった」と地引さんの『ストリート・キングダム 東京パンク/インディーズ・シーンの記録』に書かれてありました。
s-ken:偶然だよね。示し合わせたわけでもないのに。
──そして、その翌月、S-KENスタジオがオープンしたと。
s-ken:初めてのライブの1か月後くらいにはできていたからね。凄いスピード、凄いパワーですよ。会社を辞めていた山浦くんが僕のクレイジーさに感染したのか、六本木のテレビ朝日通りに候補地を見つけてきて、突貫工事でできちゃった。元は映画の編集とかで使っていた地下と1階が吹き抜けになった特殊な場所だったんだけどね。そこをいわゆる貸スタジオみたいに機能させて、ライブもやって、パンク/ニューウェイヴの拠点にしようという考えで作ったわけだけど、でも果たしてそんなところに人が集まるかどうかはわからなかったわけで。
──ところが、スタジオのオープニング・パーティとして「パンク仕掛け99%」(出演はスピード、紅蜥蜴、ミスター・カイト、ミラーズ、S-KEN、フリクション)というギグを企画すると、たくさんのお客さん、ミュージシャンやアート関係、ファッション関係の人たちが集まってきたわけですよね。
s-ken:オープニングのときから異様な雰囲気なわけ。どっから湧いて来たのかわからないけど、お客さんがたくさんいて。情報の伝播力って凄いなと思ったよ。僕のところにデモテープを持ってくる人もたくさんいた。突然段ボールとかね。だから、やっぱりそういう時代の切れ目みたいなのに反応する若い人たちっていうのはいるんだなと思った。今度の映画(『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』)は、紅蜥蜴のモモヨと出会って追いかけるようになった地引くんがS-KENスタジオとも出会って、東京ロッカーズと動きを共にするようになって……っていう流れの話なんだよ。
──その「パンク仕掛け99%」に出演した6バンド中5バンドがその後、東京ロッカーズとして動き出すことになったわけですが、スピードだけはそこに参加しなかった。出演順のことでスピードのケンゴさんとs-kenさんが喧嘩したからだと地引さんの本に書かれてありましたが。
s-ken:喧嘩した覚えはないけど、やることなすこと気に食わないみたいな感じだったから、だったらやめればいいじゃん?!って感じで。ここで言っておきたいのは、映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』の解説に“たった1年を永遠にした若者たちがいた。パンクに影響を受けた彼らは東京ロッカーズと呼ばれ、日本のロックに革命を起こす”なんて書いてある通り、フリクション、リザード、ミラーズ、ミスター・カイト、S-KENの5バンド以外にも1年間に30以上のバンドがS-KENスタジオや東京ロッカーズという起爆剤に誘われ、入り乱れたってことで。P-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスといったテクノポップ勢、アーント・サリーやSSといった関西勢、BOLSHIE、8 1/2、不正療法、チェインソーといった若手、僕のところにデモテープを持ってきた突然ダンボール、さらにペイン、工藤冬里&大村礼子、フレッシュ、マリア023、自殺、スタークラブ、SEX、サイズ、ボーイズボーイズ、それに東京ロッカーズの存在に不満を持ったスピードのような反抗的なバンドなんかが入り乱れてそこにいたってことがある種の革命だったってこと。だから僕のなかで、大きな意味では思いがけず急速に盛り上がってきたこれらパンク/ニューウェイヴ勢の全てが愛すべき東京ロッカーズだと言っていいと思っている。スピードも含めてね。パンクの概念で俯瞰すれば、中心がいてこそアンチも光るって話で。
──なるほど。それから、紅蜥蜴は「パンク仕掛け99%」を終えてすぐにリザードと改名したわけですが、モモヨさんにその助言をしたのもs-kenさんだったそうですね。
s-ken:地引くんの本に書いてあるよね。僕はそれ、よく覚えてないんですよ。ただ、正直言って紅蜥蜴って名前はないなと思っていた。3/3もフリクションになったし、この際変えたほうがいいんじゃないかってことは言ったかもしれない。

──モモヨさんとはどのように出会ったんですか。
s-ken:レックが連れてきたんですよ。モモヨは知れば知るほど凄いやつだと思ったね。(リザードが)メジャーデビューする前から、いろんなことを研究して、いろんなことに精通していた。機材のことも詳しかったし。1979年というのは、海外ではパンクからニューウェイヴへと移行しだした頃でね。日本だとYMOがいちばん早くて、クラフトワークみたいな手法でエキゾチックサウンドをやるというところに到達していたわけじゃない? 東京にいて海外の動きや感性に共振できるのは凄いなと思ったんだけど、モモヨもそういうところがあったんだよ。紅蜥蜴からリザードになった途端にサウンドはエレクトリック的なものになって、ニューウェイヴへと進化していった。それはキーボードのコウ(中島幸一郎)のセンスも大きかったと思うけど。
──時代の変化を察知して紅蜥蜴からリザードへと脱皮した。
s-ken:そう。しかも意外とポップだったんだよ。“仲見世通りを駆け抜けて 夢のかけらを探すのさ”(「浅草六区」)ってポップなメロディで歌っていたわけだし。で、レックはレックで急激に進化していて、僕が住んでいたニューヨークのアパートを訪ねて来たときと、フリクションを始めて東京で再会したときとでガラッと印象が変わったんだ。僕も東京に帰ってきたときに、周りの人間からとんでもなく変身して帰ってきたので驚いたと言われたんだけど、やっぱりニューヨークのパワーに感染したことが大きくて、それはレックも同じだったんだと思う。だからレックは『WATCH OUT』というミニコミを作るって言い出したし、僕もそれを手伝った。S-KENスタジオでギグを始めて、客なんか集まると思っていなかったけど、とにかく“やってやる”というようなクレイジーなエネルギーと勢いが自分たちにはあったし、僕としては東京からニューヨークやロンドンにお返しするというか、“これが最前線、東京のパンクだ。六本木のストリートから世界へ”っていうような気分があったんだ。
──なるほど。
s-ken:東京ロッカーズをもっと俯瞰して見ると、レックという才能の深さがある。それからモモヨという才能の深さもある。そのふたりの才能の深さは、たとえば自分が90年代にプロデュースして大きくなっていったバンドやアーティストたちと比較しても、当時は異次元のレベルにあった。そのぐらいとんでもない才能を秘めていたんだ。だからふたりともその後スーパースターになって、経済的にも恵まれ、世界を股にかけて活躍するだろうと思っていた。なぜそうならなかったのか知りたいね。
──スタジオ録音による傑作を残すと時代が変わっても評価される機会が度々巡ってきますけど、ライブの凄さはそのときに観た人しかわからないですからね。
s-ken:そう。そういう話はこの前、レックともしたんだけど。

──わりと最近、レックさんに会われたんですよね。
s-ken:うん。数回会って話したんだけど、フリクションはチコ・ヒゲが凄かったんだと言っていた。チコ・ヒゲのビートのことをレックはバックビートだと言っていたけど、僕が基本とするビートとも違うんだよね。要するに足で一拍取るときに地面に着く瞬間に感じるようなビート。ジャズで言うダウンビートだね。ところがレックの言うバックビートはダウンビートとも違う。それがどういうものなのか僕にはわからないけど、レックが言うにはそのバックビートに一番近いのがチコ・ヒゲのドラムなんだって。ちなみに『魔都』(s-kenの1stアルバム)の1曲目(「魔都(MATO)」)のベースとドラムがレックとヒゲなんだよ。
──s-kenさんから見てミラーズとミスター・カイトはどうでしたか。
s-ken:両方とも好きだったよ。ヒゴくんはミラーズのあと、チャンス・オペレーションをやったでしょ? あれもよかったけど、僕はミラーズがなんといっても好きだった。ヒゴくんの、あの思い切った感じがよかったんだ。ニューヨークパンクで言うならラモーンズ的なものだよね。ミスター・カイトはもっと情緒的で、テレヴィジョン的かな。好きだったよ。
──東京ロッカーズの5バンドは79年3月11日に新宿ロフトでライブレコーディングを行って、4月にアルバム『東京ROCKERS』がCBS・ソニーからリリースされました。が、その発売記念ツアーを終えたところで、s-kenさんは東京ロッカーズの活動自体を終わらせたんですよね。
s-ken:うん。だから1年ちょっとの話なんですよ。そこには個々のサクセス・ストーリーもないわけ。にもかかわらず、今それが映画化されるというのは、それまで日本で起きていないストリートムーブメント的なことがそこで起こったってことで。様々な現象を遡っていくと、その根っこに東京ロッカーズがあったってことじゃないかな。後に『宝島』がインディペンテントのレーベル(キャプテンレコード)を作ったのもそういう流れだったと思うし、イカ天の背後にいた者たちも東京ロッカーズ人脈が多かった。ただ東京ロッカーズ後には、いつもの如く流行の先端としてパンク/ニューウェイヴを商業化したようなバンドもいっぱい出てきた。夕焼け楽団とか、ムーンライターズとか、あがた森魚のヴァージンVSとか、遠藤賢司とか、僕と同世代のオールドウェイヴの人たちも髪を切って続々とニューウェイヴに変身していった。たとえば夕焼け楽団の久保田麻琴氏が(バンドS-KENのベースだった)山浦氏と知り合いで、1978年にS-KENスタジオにサンディーと遊びに来たことがあったんだけど、ふたりともヒッピーっぽく長髪で、アフガンコートを着ていたからね。それから1~2年後に彼らはサンディー&サンセッツと変名して、髪を切ってニューウェイヴ・ファッションになっていた。そういう時代の流れに乗って、パンクを通過していない毒性のないニューウェイヴ……業界ニューウェイヴ、業界パンクみたいなものもたくさん出てきたのには驚いたけど。
──ファッション先行型みたいな。
s-ken:うん。たとえばポール・ウェラーはジャムをやったあとにスタイル・カウンシルをやるわけじゃない? だけど日本ではいきなりスタイル・カウンシルみたいなカッコの人たちが出てきたわけ。パンクを通過しないでね。それってすごく日本的だなと思って。グラムロックのときの流行と同じ構造。それはやっぱり違和感があったよね。どういう気持ちでニューウェイヴをやってるの? って訊いてみたかった。
──東京ロッカーズとしての活動を79年に終え、s-kenさんがソロ名義のデビューアルバム『魔都』を発表したのは2年後の81年でした。
s-ken:東京ロッカーズ・ネットワークのなかで自分がそこに存在したという足跡のようなアルバムだね。自分はここから出てきたんだ、っていう。まあ、デビューアルバムにしてある種の集大成というか。東京ロッカーズ周辺の人がたくさん参加してくれて、いないのはミスター・カイトとミラーズくらい。モモヨは文を寄せてくれたしね。今考えると、よくあれだけ集まってくれたなと思うよ。
──その一方で、「東京ロッカーズとの別れを象徴するものでもあった」と著書のなかで書かれていました。
s-ken:それは自分自身の新たなスタートを象徴するアルバムだったという意味でそう書いたんだけど。『魔都』はまだ心情的には東京ロッカーズからそこまで変わっていなかったけど、83年に2作目の『ギャング・バスターズ』を作って、そのときは次のステップとしてそれ以前からリスナーとして夢中になって聴いていた音楽を取り込んでいこうというのがあった。スカとかレゲエとかサルサとかブガルーとかニューオーリンズのファンクとかね。そういう音楽のエッセンスをニューウェイヴの流れのなかにどう取り込んだらいいんだろうと思案しながら作ったのを覚えている。だから『ギャング・バスターズ』は過渡期の作品で、あの作品でやりたかったことをひとつのバンドでやろうというので結成したのがs-ken&hot bombomsなんだ。『ギャング・バスターズ』ではまだ迷いがあったんだけど、でもあれをおもしろいと言う人もいるわけで。
──いろんな音楽がごちゃ混ぜになっていて相当おもしろかったですよ。
s-ken:hot bombomsを結成して、まず『JUNGLE・DA』(85年)を作ったんだけど、あれはヴァン・ダイク・パークスの『ディスカヴァー・アメリカ』みたいなものだよね。70年代初めのエキゾチックサウンドの言い出しっぺの落とし前として、リコス・クレオール・バンドをカバーしたりしながら、ああいうものをニューウェイヴ感覚で作りたくてしょうがなかった。で、それを経て『Pa-Pue-Be』(87年)を作るんだけど、あのアルバムでようやく、ずっと模索し続けてきたサウンドが思い通りに表現できたと思えたんだ。あのアルバムからあとは基本的には変わっていないんですよ。あそこで確立したサウンドが今にも繋がっているというか。これまで自分としては毎回、最高傑作を作ろうと思ってやってきたわけで、今はやっぱり最新作である『P.O.BOX 496』(2022年)が自分の到達点だと思っている。だけど、いろんな人と話すと、その人によって僕の好きな作品が違うのがおもしろいね。『魔都』が好きだと言う人もいるし、『ギャング・バスターズ』だって人もいるし、『JUNGLE・DA』がいいって人もいるし、なかには『千の眼』(88年)が好きって人もいるし。
──以前に『魔都』でs-kenというキャラクターになりきれたという話をされていて、そういう意味ではそのキャラクターが長い旅をしているという感覚もありますよね。
s-ken:うん。そうかもしれない。そういう意味では『テキーラ・ザ・リッパー』(2017年)も『魔都』なのかもしれないね。『魔都』の男が、『SEVEN ENEMIES』(1990年)の最後に入っている“そしてエル・ドラドへ”って曲でどっかにいなくなっちゃって。で、『テキーラ・ザ・リッパー』に入っている“オールド・ディック”という曲は、その男が舞い戻ってくるという話だったから。まあ、人間、そんなに変わらないのかもしれないね(笑)。
──ずっと繋がっているということですね。ではまとめ的な質問になりますけど、今のs-kenさんから見て東京ロッカーズというムーブメントは一体なんだったのか。そしてそれは今のご自分にどう繋がっているのか、聞かせてください。
s-ken:当時共産圏だったワルシャワからの世界一周の放浪が24歳で、1971年に初めてニューヨークに行った。で、その5年後、20代後半になって再びニューヨークに行き、劇的な音楽の潮流の変化に巻き込まれながら衝撃を受けたわけで、もしもそれがなかったら東京ロッカーズもないし、その後のアーティスト活動もプロデュース活動もないし、今の自分の美意識にも到達できなかったと思うんだ。ということは、やっぱり非常にラッキーだったなと今は思っていて。自分に先導者みたいな資質なんかないと思っていたのに、そういう都市と刺激的な時空の現場に出会って、感動し、感染し、勇気をもらい、受け身ではなく自分の行動をそこに近づけようとしたわけで。概念としてイメージを持つことと実行に移すことには大きな隔たりがあるからね。だけど東京ロッカーズで僕は実行に移した。僕の人生であれほどみんなと喧嘩したことも、感動を分かち合ったこともないんですよ。TOKYO SOY SOURCEはラクな感じのネットワークのなかでバンドやDJが自然に集まって自然にやれる感じだったけど、東京ロッカーズはそれぞれの価値観をぶつけ合いながら火をつけることができた。みんながどう思っているかはわからないけど、それはその後の自信や行動様式にも繋がっていったよね。ささやかながらもシーンを生み出し、そのなかの演者の一人でもいるということ。やれば、少なくとも自分の歩む時空においてはエキサイティングを実現できるんだ、っていう。

s-ken
昭和22年、東京都生まれ。1975年にヤマハ音楽振興会の海外特派員として渡米。ニューヨークに滞在中、CBGBなどのニューヨークパンクシーンに影響を受ける。78年に帰国し、パンクロックムーブメント「東京ロッカーズ」を牽引。90年代以降は主に音楽プロデューサーとして活躍しているが、パフォーマーとしても健在。






