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昭和マイルド

そこは浅野ゆう子の華やかさ
にはどうしても負けてしまう
――近田春夫

昭和40年男が残したもの

日本の歌謡曲にディスコサウンドが取り入れられたのはいつのことだろう。この音楽史をひもとくために、草創期のフロア事情に詳しく、自身でもディスコミュージックを制作、さらには歌謡曲の大ヒットメーカーであり、数多くのディスコ歌謡を作ってきた作曲家・筒美京平作品の研究でも知られ、生前から筒美との交流もあった近田春夫さんにご登場していただいた。

※この記事は雑誌『昭和40年男』2024年10月号に掲載したものを一部抜粋したものです。

「スリーディグリーズの『にがい涙』(75年/作詞・安井かずみ、作曲・筒美京平)こそが、最初の日本産ディスコサウンドです。筒美京平は音楽制作において、まずお手本があり、それを換骨奪胎する表現にエネルギーを注いでる人。ただ、60年代、GSの頃とフィリー以降の京平さんのいちばんの違いは、インスパイアされる部分。GSの頃はディテール、たとえばジャガーズ「星空の二人」の〝♪ヘイ へヘイヘイ〟がテンプテーションズからのインスパイアであるように、部分的なフレーズなどを応用していた。それが『にがい涙』以降は、アレンジやオーケストレーションなどを応用するようになっていくんです」

では、フロアでの現場サイドから生まれた〝踊るための〟日本産のディスコミュージックは、いつ頃生まれたのだろうか。

「最初はクック・ニック&チャッキーの『可愛いいひとよ』(72年)ですね。これは大野克夫の作曲で、この曲独自のステップがある。ステップはディスコのなかでも無視できない存在で、日本で最初に始まったのは60年代、フジテレビの『ビートポップス』が番組独自のステップを作ったところからですね。そして『可愛いいひとよ』は、日本独自のステップを楽曲とセットで考案した最初の作品なんです。ただ曲調はディスコでもなんでもない」

 クック豊本、ニック岡井、チャッキー新倉の3人で結成されたこのグループのなかでも、ニック岡井は多くのソウルステップを考案し、日本のディスコで流行させた人物なのだ。では本気で踊らせるためのディスコミュージックの最初は?

「手前味噌になってしまいますが、いわゆるディスコで踊ることを前提に作られた日本語のオリジナル曲としては、僕がハルヲフォンで作った75年の『FUNKYダッコNo.1』が最初かもしれません。僕はロックバンドをやっていたけれど、同時にディスコで遊んでいた人間なので、そこで流れるような曲も性に合っていた。ある時、レコード会社から企画を提案され、その企画で曲を作ってくれたら、バンドとしてデビューさせてやる、と言われたんです。それが、おもちゃ会社のタカラがもう一度〝だっこちゃん〟のブームを作ろうという企画で、そのためのテーマ曲として作ったのが『FUNKYダッコNo.1』です」

 そこで、全国ディスコ協会の会長であったディスコ「エンバシー」の店長、ドン勝本から紹介を受け、ボーカルとして参加したのがキャロン・ホーガンという女性シンガーだった。

「彼女の声に合わせて、コモドアーズの『ザ・バンプ』と『マシンガン』を掛け合わせた曲を作ったんです。この曲はあまりヒットしなかったけれど、その翌年に出たのがファンキー・ビューローの『クラップ・ユア・ハンド』。ただ、どちらもマーケットとしてこういう音楽を受け入れる土壌はまだなかった。そんななかで京平さんは、ファンキー・ビューローと同じ年に『セクシー・バスストップ』ですからね。そこは浅野ゆう子の華やかさにはどうしても負けてしまう」


近田春夫/ちかだはるお
昭和26年、東京都生まれ。慶應義塾大学在学中に鍵盤奏者としてカルメン・マキ&タイムマシーンや内田裕也グループに参加。1972年に近田春夫&ハルヲフォンを結成。その後も近田春夫&BEEF、近田春夫&ビブラトーンズ、ビブラストーンなど、ジャンルや形態を問わない音楽活動を展開する一方で、タレント、DJ、作詞家、作曲家、プロデューサー、歌謡曲評論家としても活躍 。近著に『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』『グループサウンズ』がある。

取材・文:馬飼野元宏
撮影:松蔭浩之