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昭和マイルド

昭和のテニスヒーロー“悪童” 
ジョン・マッケンロー
――福積幸一 連載第2回

編集部

連載『海外スター紳士淑女録』がスタート。外国がいまより遥かに遠かったあの頃。海外で活躍するスターは、文字通り雲の上の憧れの存在だった。そんな記憶を令和のいま紐解いてみよう。

前回取り上げたリチャード・クレイダーマンが“貴公子”と呼ぶに相応しい人物ならば、ジョン・マッケンローは“悪童”という呼称がピッタリの規格外の昭和のスターだ。

1976年に選手生活を始めたマッケンローは、18歳の時に77年全仏オープン混合ダブルスでメアリー・カリロとペアを組み、初の4大タイトルを獲得。続くウィンブルドンで大会史上初となる予選からベスト4に進出、準決勝で当時世界1位だったジミー・コナーズと対戦して敗れはしたが、18歳のこのスターの登場は世界中を驚かせた。

79年には全米オープン決勝に進出、四大大会初タイトルを獲得、翌80年、ウィンブルドンで初の決勝進出を果たし、大会5連覇を目指すビヨン・ボルグと3時間55分にもおよぶ死闘を演じた。この試合は後に『ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男』(2019)という劇映画になるなど、テニス史上に残る名勝負として今も語り継がれている。この時、敗れたマッケンローは81年のウィンブルドンでボルグと再び相まみえ、優勝。84年には全仏オープンで準優勝、全米オープンではランキング2位のイワン・レンドルを、ウィンブルドンで3位のコナーズを決勝で圧倒。全14大会に出場、12大会で優勝、年間でわずか3敗、年間勝率 .965 という驚異の戦績を残した。
 
77年から84年はマッケンローの時代だった。そう断言してしまいたいほど、この時代の彼は神憑っていた。とりわけ、ほぼ相手に背中を向けたクローズドスタンスから放たれるサーブと変幻自在のボレーは鮮烈で、その大胆にして繊細なプレイは“芸術家”と讃えられた。彼の活躍は日本でも知れ渡り、折からのテニス人気に拍車をかけた。82年から86年にかけてトヨタ・カローラⅡ(初代)のCMに出演、ウィンブルドンで死闘を演じたボルグと日清サラダ油『マヨドレ』(82)のCMで共演している。

彼の名を筆者のようなテニスにさほど詳しくない日本人に知らしめたのは、試合中の過激な言動の数々だ。判定に対する不服を隠そうとせず、審判に暴言を吐く、観客やカメラマンに敵意剥き出しで喰ってかかる。それまで紳士淑女のスポーツと思われていたテニスの世界で、マッケンローは明らかに異端児だった。

筆者が彼の存在を意識したのは82年のことだった。愛読誌だった『宝島』(2月号)の表紙を彼が飾ったのがキッカケだ。当時23歳のマッケンローに独占取材を敢行しているのだが、そのタイトルが“テニス・コートのならず者”。実際のマッケンローは純粋で内向的な青年なのだが、一切の妥協を許さぬ完璧主義が祟って、悪童(スーパー・ブラット)というレッテルを貼られてしまう。そんな彼の境遇が、数々の言動で物議を醸していた当時のジョン・ライドンやジョー・ストラマーと重なって不思議と親近感を覚えた。

高い理想ゆえに懊悩を抱えながら、それでも攻めの姿勢を崩さないマッケンローの生き方は、若きロックスターたちと驚くほど似ていると感じた。それにしても当時の『宝島』誌の嗅覚には関心させられる。ニューウエーブ真っ盛りの82年にテニス界の異端児を表紙に抜擢する。ジャンルを横断しながら、同時代の空気を誰よりも早く捉えるのが編集者の仕事だと改めて思った。

もうひとつ、マッケンローといえば忘れてはならないのが、86年に彼と結婚したテータム・オニールの存在だ。子役として活躍していたオニールは、76年公開の映画『がんばれ! ベアーズ』に出演する頃、最も稼ぐ子役俳優としてその名を馳せ、日本でも『ロードショー』や『スクリーン』といった雑誌の表紙を幾度も飾るほど中高生の間で高い人気を誇った。そんんなオニールと結婚したことで、マッケンローがぐっと近くに感じたものだ。

ところで、80年代は猫も杓子も上から下までテニス熱に浮かれていたわけだが、あれは何だったんだろう。筆者が通う大学でも、軟式テニスサークルが飛び抜けて人気があり、見目麗しい男女がコートで爽やかな汗を流していた。“モテるためにはテニスをやらなくてはならないのか”と、門外漢の筆者でさえ、なかば真剣に考えさせられるほど、日本中の若者を魅了していた。 

あれからおよそ40年、筆者は気がついた。“テニスをやるからモテるのではなく、そもそもモテる男女がテニスをやっていた”ということに。真剣にテニスに打ち込んでいる諸兄には、どうでもいい話だろうけれど。

文:福積幸一