連載『海外スター紳士淑女録』がスタート。外国がいまより遥かに遠かったあの頃。海外で活躍するスターは、文字通り雲の上の憧れの存在だった。そんな記憶を令和のいま紐解いてみよう。

“貴公子”という言葉がある。容姿が整っていて、立ち振る舞いが洗練された若い男性を指す言葉だが、令和の現在ではあまり耳馴染みはないかもしれない。昭和の時代、芸能界に留まらず、各界に美青年が登場すると、メディアは頻繁にこの言葉を使用していた。あまりに濫用するものだから、ちょっとやそっとの美青年が現れても視聴者は驚かなくなっていたが、16歳でパリ・コンセヴァルトワール(パリ国立高等音楽・舞踏学校)を首席で卒業したこの人の登場は鮮烈に覚えている。
近所の八百屋の長女が、その容姿に一目ぼれしてレコードを買ったというのもむべなるかな。彼が演奏するテーマ曲が若尾文子主演のドラマ『午後の旅立ち』(81) で使用されたことから、プロモーションの一環で日本のテレビ番組で演奏・出演を果たした時の姿は“ピアノの貴公子”以外の何者でもなかった。
芸名:リシャール・クレイデルマン(本名:フィリップ・ロベール・ルイ・パジェス)。この呼び名よりも、はるかに英語読みのリチャード・クレイダーマンの方が日本人にとってはなじみ深いはずだ。76年にデルファンから『Ballade pour Adeline』(『渚のアデリーヌ』)でレコードデビュー、西ドイツのテレビドラマの主題曲として使用され、全西独シングル・チャート1位を獲得、これを機にスペインや本国フランスでもヒットする。日本でも、当時のビクター音楽産業がデルファン社とクレイダーマンに関する日本での独占販売契約を締結(現在も継続)。78年、日本で彼のレコードが発売されると、瞬く間に評判を呼んだ。80年には初来日、流麗なメロディ、確かな演奏技術、その端正な容姿から、イージーリスニング・ミュージックの若き継承者として女性を中心に熱狂的な人気を博した。
筆者は、クレイダーマンの日本での成功は約束されたものだったと考えている。その理由の一つ目は、イージー・リスニングというジャンルが新たな担い手を求めていたから。イージー・リスニングといえば、同じフランス出身のポール・モーリア。この言葉自体がいまや死語だが、昭和生まれで『エーゲ海の真珠』『オリーブの首飾り』を聞いたことのない日本人はほぼ存在しないのではないか。68年に『恋はみずいろ』がビルボード全米ヒットチャートで2月10日付より連続5週トップを記録したのを機に約500万枚のヒットを記録して以来、イージー・リスニングの帝王の座を守り続けたモーリアに対して、80年の来日時のクレイダーマンは27歳。イージー・リスニングの若き継承者として、これ以上の適任者はいなかった。
二つ目の理由は、日本人のフランス文化への憧れが絶頂に達していたから。アニメ『ベルサイユのばら』が放映されたのが、79年10月10日から80年9月3日、名匠ジャック・ドゥミによる実写版が上映されたのが、79年3月3日(音楽はミシェル・ルグラン)。池田理代子による漫画は72年21号から1973年52号まで『週刊マーガレット』(集英社)で連載され、宝塚歌劇団によって舞台化されていたが、このアニメの放映で一般層にも浸透、それ以前から映画『男と女』、ドラマ『赤い疑惑』で醸成された“フランス憧れ”が沸点に達したその時、パリ・コンセヴァルトワール出身のクレイダーマンは現れた。
そして三つ目の理由。それはディスコ・ブームの反動。78年に映画『サタデイ・ナイト・フィーバー』が日本で公開されると、猫も杓子もディスコ。そんなダンスミュージックの喧噪に疲れた耳を癒したのが、クレイダーマンが奏でるピアノの音色だった。こうした幾つも幸運を味方につけたクレイダーマンだが、彼が支持される理由は、どこまでいっても、シンプルで美しい旋律を生み出す、職人的ですらあるミュージシャンシップにある。その姿勢はいまも変わらない。
81年に某化粧品の広告で流れた『愛のコンチェルト』は、多くの日本人の琴線に訴えた彼の代表曲だ。80年代初頭のアナログからデジタルへ移行していく時代の狭間に、このような楽曲が支持されたのは興味深い。“圧倒的な高揚感に包まれたい”という感情の裏側にある“癒されたい”という願望は普遍的なものなのだろう。世紀末の99年に坂本龍一の『ウラBTTB』が突如首位を獲得したように。 最後に、下町の八百屋の二階からリチャード・クレイダーマンが流れる光景はあまりにシュールだったことは付記しておきたい。パリは遠かった。







