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昭和マイルド

J-POPポップの開祖は吉田拓郎
――音楽評論家・富澤一誠

昭和40年男が残したもの

昭和に生まれた日本語による自作自演の音楽の歴史をくまなく目撃してきた音楽評論家・富澤一誠に、フォーク誕生からニューミュージックへ移行した1970年代の潮流と背景について聞いた。

※この記事は雑誌『昭和40年男』2022年12月号に掲載したものです。

富澤一誠が言う!昭和とニューミュージック

「日本にフォークソングが広まるきっかけは、マイク真木の 『バラが咲いた』(66年) でした。以降、ザ・ブロードサイド・フォーなどのフォークグループが現れるのですが、彼らは主に東京の比較的裕福な大学生が中心だったため、カレッジフォークと呼ばれていました。一方、関西では高石友也がボブ・ディランなど、アメリカのフォーク歌手の楽曲を訳して歌う活動を同時期に始めています。フォークの形式を取り入れたカレッジフォークに対して、高石はディランなどが歌う歌詞の内容を重視しました。その高石の影響で曲を作り始めたのが、岡林信康です」

ニューミュージックの前身にあたる和製フォーク誕生の背景をこう語るのは、音楽評論家の富澤一誠だ。

“私たち”の岡林 “私”の拓郎

富澤は続けて、岡林信康と吉田拓郎という二人の才能をこう評した。

「岡林は日本で初めて自らの言葉で、社会や時代の矛盾を訴えた歌手でした。当時大学1年生だった私は、ラジオから彼の歌う『私たちの望むものは』(70年)が流れてきた時、“生きる”や“奪い取る”といったそれまでの歌では聞いたことのない言葉の連続に、強い衝撃を受けました。1970年という年は日米安全保障条約の自動延長にあたり、それを阻止しようという若者たちが各地で機動隊と衝突を繰り返した年でした。岡林の歌う“私たち”という主語には、皆で連帯して政治矛盾に抗議するべきだという、こうした時代の空気が色濃く反映されていました。ところが、翌年の71年に吉田拓郎が発表した『今日までそして明日から』の歌詞に登場する主語は“私たち”ではなく“私”でした。あれだけ闘ったにもかかわらず、条約が自動延長されたのを契機に、政治や社会の矛盾に向いていた若者の目が運動に参加した自分自身に向き始めるんです。拓郎はこうした連帯から個へ移り変わる若者の心情を見事に表現してみせたんです」

吉田拓郎は翌72年に「結婚しようよ」が40万枚、続く「旅の宿」が70万枚の大ヒットを記録、一躍時代の寵児となる。

「72年は、フォークがサブカルチャーからメインカルチャーに浮上した分岐点の年でした。そしてそのけん引者が吉田拓郎です。彼は自ら作詞作曲を行う歌手の魅力を世間一般に知らしめた初のアーティストでした。拓郎の切り開いた地平の延長線上に、現在のJ-ポップが存在するといっていい。それほどまでに彼の影響は甚大です」

この吉田拓郎の躍進に続いたのが、井上陽水とかぐや姫だった。陽水は翌73年に発表した「夢の中へ」と「心もよう」が連続ヒット、一方のかぐや姫も73年に発表した「神田川」 が100万枚を超える空前のヒットを記録した。

「72年から74年は空前のフォークブームでした。この頃になると、高度経済成長に陰りが見え始め、若者たちは学生運動に挫折して疲れていました。彼らは誰もが思い出す心象風景を、やさしさで染め上げるように歌を紡ぐことで、目標を失った若者たちの強い共感を得ました」

ユーミンが生み出した全く新しい音楽

そして75年、時代は一人の天才少女の台頭によってフォークからニューミュージックへと移行する。

「荒井(現・松任谷)由実の登場は鮮烈でした。私は73年に発表されたデビュー作 『ひこうき雲』のキャッチコピーを考えるようにプロデューサーの村井邦彦さんから依頼されたのですが、これがかなりの難産だったんです。なぜなら、当時日本で流行していたどんな音楽とも彼女の作る曲が似ていなかったからなんです。彼女の生み出す世界は生活臭や人間くささが希薄で、フォークとは180度真逆でした。結局、苦労の末に『新感覚派』という言葉が浮かんでこれが採用されたのですが、それほど彼女の音楽は異質なものでした。この2年後の75年に『ルージュの伝言』と『あの日に帰りたい』のヒットでユーミンの快進撃は始まるわけですが、真の意味で”ニューミュージック” と呼べるアーティストは、当時ユーミンしかいなかったと思っています」

70年代後半は現在のポップスの雛形にあたるスタイルがほぼ出そろった時期だった

75〜79年の4年間は、吉田拓郎が切り開いたフォークの潮流と、ユーミンが標榜したポップスの潮流という二つのジャンルが、交じり合うことなく並走する過渡期だったと富澤は語る。

「メッセージ重視のフォークとサウンド重視のポップスのアーティストが各々独立して活動している、そんな状況が70年代後半の数年間は続いていました。この頃、松山千春も渡辺真知子もユーミンも、やっている音楽はまるで違うのにニューミュージックと呼ばれていました。つまり、ニューミュージックとは細分化したフォークとポップスの両方を包括する総称ということです。両者はスタイルこそ違えど、その時々の心情や心象風景を自らの歌で表現するという点では共通しています。こうした表現は、現在のJ-ポップのアーティストたちに継承されています。総じて言うならば、70年代後半はヒップホップなど一部のジャンルを除けば、現在のポップスの雛形にあたるスタイルがほぼ出そろった時期だったと言えます」

吉田拓郎の登場からおよそ5年、ニューミュージックという言葉の登場は、音楽シーン全体が成熟した証左とも言える。

情熱の音楽評論家・富澤一誠

フォーク評論の第一人者・富澤は、アーティストと裸のつき合いをしながら、その経験を昇華させた“音楽生き様論”とも呼べる批評スタイルを確立。これまで多くの著作を発表している。なかでも79年の『松山千春‒さすらいの青春』『さだまさし‒終りなき旅』は評伝ルポルタージュという手法を駆使した傑作で、前者が20万部超え、後者が10万部超えを記録した。

※1…黒澤久雄が大学在学中に結成したフォークグループ。「若者たち」(66年)が大ヒットした。
※2…現在は高石ともや。フォークソング創世期から活動するフォーク歌手。代表曲に「受験生ブルース」(68年)がある。
取材・文:福積幸一
資料提供:鈴木啓之
撮影:石塚康之